3x3(『方丈記』)

それでも何かを捨てられず

鴨長明方丈記』。一辺一丈(約3メートル)四方の小さな家、庵で書いたので方丈記高橋源一郎は「モバイル・ハウス」としている。バラバラにしてもリアカー2台分くらいらしいので、まあ確かにモバイル。

平安末期〜鎌倉時代初期に起きた5つの災害・人災の記録、自分の人生の振り返り、自給自足的隠遁生活の記録、仏道修行してるんだけど執着心を捨てるのはなんか難しいな南無阿弥陀仏、という本。

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

という冒頭が有名なので、この世は無常だというどこか末法思想全開でこの世を儚むような透度の高い、淡いような内容だと思うことが多いけど、なんか違う。ベースの考え方にはあるような気はするけど。

だんだん死が近づいているが、自分はどこかで執着心を捨てきれない。このままでは極楽浄土に行くなんて無理な気がする。でも、どうしてだっけ、どうしておれはこんな感じなんだっけ?という振り返りをしていくうちにできた本じゃないかと感じた。

本当は

しづかなる曉、このことわりを思ひつゞけて、みづから心に問ひていはく、世をのがれて山林にまじはるは、心ををさめて道を行はむがためなり。然るを汝が姿はひじりに似て、心はにごりにしめり。すみかは則ち淨名居士のあとをけがせりといへども、たもつ所はわづかに周梨槃特が行にだも及ばず。もしこれ貧賤の報のみづからなやますか、はた亦妄心のいたりてくるはせるか、その時こゝろ更に答ふることなし。たゝかたはらに舌根をやとひて不請の念佛、兩三返を申してやみぬ。

(静かな夜明けに、このことを何度も頭の中で反芻して自分の心に聞いてみた。俗世間から離れてこんな山の中に庵を構えているのは、心を修めて仏道修行をするためだった。見た目は聖みたいかもしれないが、その心は全くもって俗にまみれている。住んでいる家は浄名居士という有名な人と同じような感じの方丈の庵だが、私は庵で修行するというそのやり方を汚してしまっているかもしれない。というかブッダの弟子で劣等生だったXXXXにも及ばない。形だけのミニマル生活をした報いなのか、あるいはもう気が狂ってきているのか?ーそう問いかけても答えは全く出てこない。口からつい出てくるままに、念仏を2、3回唱えてみた。)

原文出所:鴨長明 方丈記 意訳はわたし

この後に、「そしてそれがおれだ」と書き足したかったんじゃないかな、と感じた。

村上春樹風の歌を聴け』のこの部分(この小説の中で最も好きな部分だ)が思い出された。

夜中の3時に寝静まった台所の冷蔵庫を漁るような人間には、それだけの文章しか書くことはできない。

そして、それが僕だ。

村上春樹風の歌を聴け』(講談社、2016、Kindle版(位置No.558))

結局、我を捨てきれなかったのかもしれない。見た目だけそれっぽくしている自分ってだめなのかもなあ、と思ったのかもしれない。でも、吉田兼好は『徒然草』でこう言っているから、そう自分を卑下しなくてもいいかもしれないよ。

現象と真理はもとより別のものではない。外側を正しく整えておけば、内側もいずれは熟す。「かたちばかりの信心ではないか」などとつまらぬ疑いを持たぬがいい。外側だけでも格好が整っている人がいたら、素直に仰ぎ見てこれを尊ぶべし。

吉田兼好内田樹訳)『徒然草』、池澤夏樹編『日本文学全集07』、447-448頁(河出書房、2016)

という方丈記の感想。

以下参考。

光文社の古典新訳文庫はUnlimitedされている。